2026.02.27

米国獣医画像診断専門医 栗原先生 スペシャルインタビュー

職種
獣医師
エリア
全国

「諦めない」から今がある
私が教職に就くまでの軌跡

「面白そう」からのスタート
僕と画像診断の出会い

高校までは野球をバリバリやっていたんですよね。ただ、野球が終わって受験生に変わったあたりで動物に夢中になった子どものころを思い出して、獣医になろうと決めたんですよね。浪人中に大学を調べていた時、たまたま麻布大学の「獣医放射線学研究室」という名前を見つけたんです。「放射線で何するんだろう?」と最初は全然分からなかったんですが、調べてみるとCTやMRIといった最先端の機械を使って病気を診断すると。まだ大学に入る前でしたけど、「新しい世界だな、面白そう!」って直感的に思ったんです。高校の先生からは「お前には獣医は無理だ」なんて言われたこともありましたけど、僕は「絶対に獣医になる」と決めていました。

大学に入って獣医放射線学研究室に入ってからは、画像診断の面白さは確信に変わりましたね。画像は嘘をつかない。失敗するのは、僕が間違って解釈した時だけなんです。そして、「診断なきところに治療なし」という考え方は、今も僕の医療の根幹にあります。病気を見つけなければ、治療も始まらない。この根本的な部分に、僕は強く惹かれました。

憧れの海外、そして立ちはだかる壁

学生時代、アメリカのコーネル大学に研修旅行に行った時の衝撃は忘れられません。
そこで出会った佐野先生と小笠原先生という日本人レジデントが、もう本当に素晴らしくて。
「ああ、僕もこの人たちみたいになりたい」「こんな先生方のようになれるアメリカの環境と教育はすごい」と思ったんですよね。
印象的だったのは、アメリカの大学教員は「教育がしたいから」という明確な理由で大学に残っている人が多いこと。アメリカでは本当に手厚く指導してくれて、それが僕にはすごく響いたんです。
「こんな教育を受けられるなら、自分ももっと成長できる。そしていつか、自分も彼らのような教育者になりたい」と強く心に刻みました。それが、10年後にアメリカに戻ってくる原動力になったんだと思います。

海外に行きたいという思いはあったものの、卒業後、日本の大学病院で4年間働いた日々は本当に猛烈でした。外科も画像も内科も何でもやって、がむしゃらに働き続けていましたね。次のステップを考える余裕もなかったくらいです。ただ、「やめるなら、次を決めてからだとなんか格好良くないな,,,」なんていう考えもなぜかあって、結局、どこに行くか決めずに退職しました。そこからまた、海外への道を探し始めたんです。

ニュージーランドでの「修行」貧乏と訛りとの戦い

海外を目指す中で、ニュージーランドにいる佐野先生の存在を知りました。佐野先生とは、学生時代のコーネル大学の研修で出会っていたので本当に、人との繋がりって、本当に不思議ですよね。佐野先生の紹介でニュージーランドへ渡ることを決めましたが、佐野先生からは「こんなに英語喋れない状態で
海外を目指すっていう風に言ってた人は初めてだよ」と、ニュージーランドを去る直前に空港で言われました(笑)。

ニュージーランドでは、ありがたいことにマッセイ大学画像診断科プロジェクトアシスタントに就かせてもらったんですね。ただ給与はほとんど無いので、そこからの2年間は本当に過酷でした。
貯金を切り崩して生活していて、夢を追っているバンドマンみたいな感じ。しかも29歳ですからね。街で一番安い、7人くらいで住むシェアハウスを選びました。住民は僕以外は全員ニュージーランド人で、家賃は1ヶ月14,000円ほど。ご飯はポトフやシチュー、カレーを大量に作って、それをローテしながら食べてましたね。シェアハウスの7人で黄金生活みたいな生活もやっていて、1日1,000円で7人分のご飯を日替わりで作っていました。いかにお金を安く抑えるかが勝負になるので、シャバシャバのカレーやシチューを僕は作ってました。それでも結構美味しいと言ってくれて。当時のルームメイトは日本のカレーはシャバシャバだと今も思っているはずなので、その点は申し訳ないです(笑)。

ニュージーランドの冬は家の中も寒くて、隙間風が入ってくるし、暖房もまともにない。薪ストーブがあるのはあるんですが、薪を燃やすと家中モクモクしてしまうので誰も使わない。家の中でもダウンジャケットを着て寝て過ごしていましたね。ねずみもいっぱいいて、鼠取りに2匹連続で捕まっている事もたまにあって、なかなかない経験をさせてもらいました。とにかくお金がないので自転車は一番安いものを買ったんですが、ギアが重くて、なんかもう歩いた方が早くない?ってなっていましたね。またニュージーランドはとにかく風も強いので、もう全然進まなくて下半身バキバキになりました。傘も当然させないので雨の日はカッパを着て自転車で移動してました。もう本当に貧乏生活でしたね。

そして、なんと言っても一番の苦労は英語。ニュージーランドの英語は訛りがめちゃくちゃ強いんですよ。最初の方は本当にルームメイトが話している内容が全く理解できませんでした。
でも、とにかく英語漬けの日々。野球部が引退して、ひたすら受験勉強に打ち込むような感覚でしたね。ニュージーランドにいる時にアメリカに行って現地の学会で学会発表をしたんですが、その時にアメリカ英語の聞き取りやすさに衝撃を受けました。「英語がわかる!」と涙が出そうになると同時に、英語力の向上を実感しました。なんか英語高地トレーニングをしていた感覚。。
このニュージーランドでの経験は、コミュニケーションの重要さも教えてくれました。現地の友達に日本のお笑いを見せても、漫才は全然ウケないのに、身体を張ったコントや落とし穴に落ちるような見た目で分かりやすいものは爆笑されるんです。「ああ、シンプルじゃないと伝わらないんだな」って。
これは、後にアメリカでレジデントに応募する際にも役立つことになります。面接で印象付けるためには、ただ優秀なだけでなく、「こいつ面白いな」と思わせる「キャラ枠」もなんとなく必要なんです(個人の感想です笑)。
英語がネイティブに劣るのは当たり前。だからこそ、自分の専門能力や、人間性で勝負するしかないんです。

レジデントへの執念「死ぬまでやる」

アメリカでのレジデント(専門医研修)への応募は、僕にとって大きな壁でした。1回目は不合格、2回目もいろんな大学で違う方向性の人が採用されたので面接すら呼ばれませんでした。30歳を過ぎて、貯金もだんだん減っている中なんですが、僕は「お金がなくなるまではやり続ける」「専門医になれない自分が想像できない」と心底思っていました。3回目の応募の時、面接で「いつまで続けるのか?」と聞かれました。僕は迷わず答えました。「死ぬまでやります」。
この言葉には、面接官が全員爆笑しましたね(笑)。でも、それくらい本気だったんです。そして、最終的にはタフツ大学のレジデントの道が開かれました。キャラ枠だと思いますが。

今思えば、僕の「英語が全く喋れない」という状態が、かえって良かったのかもしれません。一番底辺からのスタートだからこそ、「こいつはまだまだ伸びるぞ」という、計り知れない伸びしろを感じてもらえたのかもしれません。実際、タフツ大学は、僕が1年目から気に入っていたと言ってくれましたし、僕が「まだ諦めてないよ」と連絡するたびに気にかけてくれていました。レジデントの1年目は本当に大変でした。英語の壁は予想以上に大きく、こなせる仕事量も半分くらいになってしまう。教員たちには本当に迷惑をかけたと思います。ですが年に2回教員からのレビューがあって評価はほんと最悪で辞めさせられるんではないか?と毎回ドキドキしてました。でも、僕は毎日遅くまで大学に残り、必死で勉強
しました。周りのレジデントからは「お前、まだいるの?」なんて笑われたりもしましたが、それが逆に僕の原動力になっていましたね。

学生からも「Dr. kurihara」じゃなくて「Ma~na~bu!!」みたいに呼ばれたりして、いつもいじられるキャラでした。最近は教員になってしまったせいか全然いじられないのはちょっと寂しいですね。でも、一生懸命教育に取り組む姿勢は、きっと伝わっていたんだと思います。言葉では伝えきれない部分は、図を描いたり、参考書を見せたりして、必死に理解してもらえるように努めました。その甲斐あって、レジデント3年目には、教育に関する最優秀賞「レジデントアワード」を受賞することができました。かつては「やめさせられるかも」と思うくらい出来なかった自分が、3年後には評価されるまでになった。これは、僕にとって本当に大きな自信になりました。

僕の恩師たち
人生を豊かにする出会い

ニュージーランドで出会った3人の恩師(おじいちゃん)、ロン、ボブ、そしてポールとの出会いも、僕の人生にとってかけがえのない宝物です。
ロンは、テキサスの大学教授をきっぱり55歳で辞め、「獣医として生きたい」とスイスやイランでも教員を務めた自由奔放な先生でした。ドイツ語とか60歳から勉強したみたいで、すごいですよね。ロンは、「何でもいいよ、お前好きなことやれよ」と僕の背中を押してくれるタイプ。

一方、ボブはロンの友人で、オクラホマ州立大学で長年教員をしてきた超教育者。僕が一生懸命英語で話そうとするのを、ゆっくりと、遮らずに聞いてくれて、分からないことは手書きで書いて教えてくれました。この真逆な2人の教員から学ぶことで、僕は教育に対する考え方の幅を広げることができたと思います。

そしてポール。彼はレジデントとして僕の指導もしてくれた、僕の「ベストフレンド」です。僕と同じくらいの年の息子がいるのに、当時50代でレジデントをしていました。僕が無職で英語もできない「手のかかる子供」のような存在だったからこそ、気にしてもらえたのかもしれません。「俺はじじいだから勉強できない」なんてユーモアを交えながら話す、本当に人間味あふれる人でした。ですが彼はもともとニュージーランドで3病院を経営していた敏腕院長。臨床力の高さにも驚きました。彼のおかげで、僕は
大学でローテーションの学生にラウンドを持つ経験もさせてもらいました。

先日、世界獣医救急集中治療学会(​JaVECCS)で、佐野先生、小笠原先生、そして僕の3人が10年ぶりに揃って会うことができました。これは、僕にとって本当に「宝物」と呼べる瞬間です。人との出会いが、人生をいかに豊かにしてくれるか、僕は身をもって経験してきました。

これからの目標
教育を通じて社会に貢献する

僕が今一番力を入れたいのは、やはり「教育」です。僕が「いい」と思った考え方を持った人を育てる。そしてその人たちがまた次の世代を教育していく。そうやって「ねずみ算式」に教育が広がっていくことが、僕が思う教育の醍醐味です。それは大学のような教育機関でしかできないことだと考えています。

将来的には、アメリカの大学で教員として働く上で、「テニュアトラック」という、アメリカに残れるポジションを取得することが目標です。これは、僕のキャリアにとって大きな意味を持ちます。そのためには研究で実績を出さないといけません。毎日新しいことやわからないこととの戦いです。

今を生き、動くことの重要性
学生の皆さんへ

とにかく「動くこと」です。 好きなこと、やりたいことをやってください。会いたい人には会いに
いってください。そして、「今」を生きること。その先の未来を考えるのも大切ですが、結局は「今」をどう生きるかが、未来に繋がっていくんです。

僕のこれまでの10年間を振り返ると、たくさんの「点」がありました。偶然の出会い、予想外の出来事。それらが一つ一つ繋がり、今の僕という「線」になっています。スティーブ・ジョブズの好きな言葉に「Connecting the Dots(点と点をつなぐ)」というのがありますが、本当にその通りだと思います。
過去を振り返れば点は繋がっているし、その点を作るのは「今」です。今の継続が、未来を切り開いていくんです。もし今、「やりたいことがない」とか「目標がない」と感じている人がいても、心配いりません。それは決して悪いことではありません。無理に探さなくていいんです。ただ、何か一生懸命になれるものがあれば、それがやりたいことかもしれません。あるいは、やりたくないことでも、一生懸命やってみたら、それがやりたいことに変わる可能性もあります。何かを「頑張った」という成功体験は、人にとって本当に大事です。それを一つ一つ積み重ねていけば、いつか自分が本当にやりたいことが見つかるはずです。そして、「いろんな人に会う」こと。これも本当に大切です。

AIがどんなに発達しても、人を無視して生きていくことはできません。人との出会いが、皆さんの人生を思わぬ方向に導いてくれることもあります。僕自身、10年以上前に出会った人たちが、急に自分の人生の大きな選択に関わってきたりすることがよくあります。会いたい人がいるなら、ぜひ会ってみてください。きっと、皆さんの想像以上に多くの人が、会ってくれるはずです。

僕の経験が、皆さんのこれからの進路や、日々の生活の中で、少しでも何かを考えるきっかけになったら嬉しいです。皆さんの挑戦を、応援しています!

栗原学 獣医師のプロフィール

ノースカロライナ州立大学獣医画像診断科のAssistant Professorとして教育・研究に取り組む。米国獣医画像診断専門医。国内外の動物病院にて画像診断科アドバイザーとしても活動中。2012年に麻布大学(獣医放射線学研究室所属)を卒業。在学中にアメリカのコーネル大学およびペンシルバニア大学獣医画像診断科にてエクスターンシップを経験。国内の動物病院で4年間の勤務医を経て、2016年よりニュージーランドのマッセイ大学画像診断科プロジェクトアシスタントに就き、翌年から2018年まで画像診断科インターン。2020年よりアメリカのタフツ大学獣医画像診断科レジデント。2024年4月より現職。